EARS

マティウス市の中央美術館のエントランスホールには、ある現代画家の手による「天使」というタイトルの絵が三枚かけられている。
銀の髪を持つ、１０歳前後であろう子供を描いた連作だ。

短いズボンから膝小僧を覗かせ、ゴールデンレトリバーと戯れているのは左側の絵。
右には大人顔負けのタキシードを身にまとい、ヴァイオリンを奏でている立ち姿が描かれている。

そして、最高傑作といわれている中央の絵には、古びた装丁の本に向けられた横顔。
滑らかな頬のライン、半ば伏せられた瞳は蒼水晶、そしてそれを縁取る長い睫毛はまるで少女のよう。

そして、特筆すべきはその柔らかな耳だ。
丸みを帯びたそれは絹のような銀糸とあいまって不思議な美しさをかもし出し、 優美で繊細、触れれば暖かいのではとふと思ってしまうほどに惹きつけられる。

だが、そのモデルが誰であるかはついにあかされることはなかった。
『血のバレンタイン』……彼もまた、その被害者だったのだ。

｢その髪、鬱陶しくありません？」

デスクに向かって読書をしながら何度も髪をかきあげる。そのしぐさがどうしても気になった僕は、つい余計な一言を口に出してしまった。
｢切りたくないのならいっそのこと結んでしまうとか。合理的な事を好む貴方らしくないですね」

黙して応えず、のイザークが完全に本に没頭している事を知り、小さな溜息をつく。

そもそも、演習が終わったら部屋へ来るように言ったのは彼のほうだ。
ここ２・３日、ずっと気になりながらできなかったデータ整理を中止してまでやってきたのに。

読書を始めると止まらないのはいつもの事。ましてやその本は、ほとんど持ちこめない『私物』の一つ。
………だから、おそらく僕はかなわない。

ただぼんやりと突っ立っているのも癪なので、イザークをじっと観察することにした。
気付かれたら途端に不機嫌になるに決まっているから。

綺麗だ。
それ以外の言葉など思いつかず、ただただ見惚れてしまう。
ひとたび口を開けば、その容姿にまるでそぐわない乱暴な物言いに驚かされるのだけれど。

そんな鎧の向こうにある清冽で一途な純粋さに多分皆気付いてる。誰もがイザークに惹かれ、だけど手を伸ばせないまま。
だから今僕の見ている『彼』は僕だけの宝物だ。

ああ、また髪をかきあげて。ちらりと覗く耳に視線が止まる。
見なれているわけではないのにどこか印象的なそれ。
思い出させそうでどうしても思い出せない。
どうして彼は、いつも隠しているのだろう。

　

　

「イザーク？？用が無いのなら、僕、部屋へ戻りますけど」
横顔を十分に堪能してから心持ち強めに名を呼べば、やっと青い瞳が僕を捉えた。

「貴様…？　いつからここにいた？」
怪訝な視線を投げかけられ、ちょっとむっとする。
「５分くらい前です。ドアはロックされてなかったし、入室前に声をかけたときイザークはちゃんと応えましたよ。
そもそも、僕にここに来るように言ったのはイザークでしょう？」

感情が高ぶるとやたらと名を呼ぶのは僕の癖だ。
それはほとんど、彼にだけ向けられるのだけれど。

「そう……だったな」
躊躇なく閉じられた本はそのまま脇のデスクに置かれ、イザークは僕と向き合った。

「それ、何の本ですか？」
「説明を聞きたいのなら覚悟して聞け。たっぷり１時間はかかるぞ」
「じゃあそのあとは僕にピアノの話をさせてくださいね。多分２時間くらいは……」

くすくす笑いながら足を踏み出し本を覗きこめば、いきなり膝の上に抱き込まれ僕は小さな悲鳴を上げた。

「……！」

ふわりと揺れた髪、そして桜色の耳朶。
１０センチの距離で、ようやく気づく。

「イザーク」
「なんだ？」
｢僕、あなたの髪がとても好きです」

そう、切り揃えた髪が耳を覆うその理由。僕だって誰にも見せたくはないから。

「何を言いたい」
「言葉――そのままですよ」

言いながら首を伸ばし、耳朶に唇を寄せる。
不意をつかれたイザークの頬が、ほんのりと上気した。

「それだけ大胆な事をしでかすとは、いい度胸だな」
「はい、覚悟してますから」
「覚悟…か。忘れるなよ、その言葉」

不機嫌そうに僕を引き寄せ、乱暴なキスをいくつも頬に落とす。
じわじわと全身に広がる熱に身を委ねながら、ぼんやり考える。

大丈夫、イザーク。僕は誰にも言いません。
絹のような銀糸に覆われた、あなたの耳の秘密を。

　

　

＜おまけ＞
１０センチといえば身長差が定番なのかなとおもい、わざと逆らってみました。私のなかの二人は常にこんな感じ？？相変わらずヤマなしオチなし意味なしですね。