Ｂｅ an angel
山の天気は変わりやすい。フロントガラスを叩きつける雨はもはや雫などとは言えないほど激しくなっていた。
空には分厚い黒雲が低く垂れ込め、真昼とは思えないほどの薄暗さだ。いつのまにか霧まで出始めている。
カトルの休暇に護衛と運転手を兼ねてハンドルを握っていたヒイロは、すぐさま徐行運転に切りかえると駐車できる場所を捜し始めた。
いくら舗装されているとはいえ、このまま山道を走りつづけるなど自殺行為だ。「落石や土砂崩れが心配だから、展望台まで走って車を止めたほうがいいよ。すぐそこのはずだから」
カーナビを覗きこんでいたカトルの言葉に従い、注意深く車を進めていく。
やがて２０台は停まれそうな広々とした駐車場が現れ、ヒイロはそのなかほどに車を止めた。
「晴れていたらきっと素晴らしい景色が見られるんだろうけど」
「そうだな」
絶え間ない雨音とともにガラス上をおびただしい水が流れていく。視界はゼロに近い。
周囲の世界と遮断されてしまったかのような閉塞感にカトルは息を呑んだ。
ちらりと端正な横顔を盗み見れば、ヒイロはハンドルに両手をそえたまま、じっと正面を見据えている。
濃い睫が落とす影、耳たぶの柔らかな形。
額にかかる髪も顎から喉にかけての曲線もまるで全てが1枚の絵のようで。それとも時が止まったのだろうか。
気がつけば頬に血がのぼっていた。心臓の鼓動が正体の見えない焦りをいっそう急き立てる。
｢ヒイ…ロ」
掠れた呼びかけは雨音に紛れ届かない。そばにいる「彼」が別のものに変わってしまったのだろうか。
そこにいると強く感じたかと思えば、こんどは遠ざかってしまう。
衝動的に右手を伸ばしてしまったカトルは、目的を見つけられないまま迷った挙句にヒイロの袖をつかんだ。「……どうした？」
不思議そうに見返すヒイロの瞳は見開かれ、柔らかな蒼を湛えている。
自分だけに向けられるその眼差しに気付いてから、カトルはずっと互いの気持ちを確信していた。
離れたくない、大切に思う、そして――――――好きだ、と。
だがそれが今大きく揺らぎ始めている。好きだという言葉だけで表されない強い何か。
もっと深いところで、もっとエゴイスティックな激しい感情。
ほとばしるそれをもてあましたカトルは、握る手に力をこめて、ただ頷くしかなかった。
シートと自分の拳と袖に刻まれた皺と。カトルの視界に入るのはそれだけで、戸惑いをあらわにしたヒイロの様子に気付くはずもない。
震えている唇も、強張ってしまった肩も。
「カトル、おまえは……」
何処かうわずったような声音に驚いて思わず顔を上げれば、視線が絡み合って身動きが取れなくなってしまう。「あ……」
引き寄せられているのかそれとも？
次第に近づいていく２人の距離、高鳴っていく胸の響きが雨音を覆い隠してしまったように思われたその時。きらりと光る筋が視界の隅を走り抜けた。
張り詰めた空気が一瞬にしてゆるみ、二人してそちらを見やる。
雲の切れ間から一筋の光の帯が地上に向かって伸びている。
やがてそれは幾筋もと広がり重なりながら、刻々とその姿を変えていった。
ゆれる煌きはしかしどこまでもまっすぐで、まばゆいことときたらまるで金の粉を撒き散らしたかのよう。「雨…あがったんだ…」
「ああ……」ゆっくりとシートに身を沈めたヒイロは、気象情報を入手しようと携帯端末のスイッチに手を伸ばした。
だが、何を間違ったのかスピーカーからは緩やかなハープの調べが流れ始める。
｢エンジェル・ラダ―」
｢何だ？｣
｢この曲の名前…なんだけど、うん、ナイスタイミングだね」
しかし指差した先の帯は一瞬にして失われ、雲の切れ間から目に染みるほどの青と白い太陽の輝きが現れた。｢さて、行くか？｣
「う〜ん、もう少しここの景色を見てからにしない？」車から降りた二人の指は自然と絡められた。
コロニーとは比べ物にならない広さに置かれた小さな家々、細く伸びる灰色の道。雨に洗われた展望台のベンチや木の葉はつやつやと濡れ光る。
さっきまであれほど深刻だった気持ちがまるで嘘のよう。
気が抜けてしまったカトルは､一人くすくすと笑い出した。
絡むヒイロの指にほんの少しだけ力がこめられた事など、気付かないまま。
＜おまけ＞
ハードなＨもいいんだけど、最近の私はこういうのが萌え(笑)。
もっともこの後ヒイロ君がどういう行動に出たかは想像にお任せします。引き寄せてキスしちゃうも良し、このまま終わってしまうのもそれなりに。
それにしても、この現象を天使の梯子と名付けた人のセンスは…う〜む、微妙。
梯子って言葉はなんとなく天使に似合わない気がします。英語なら少しはましかとも思うけど、ラダ―という響きもちょっとなあ。
天使がのぼったりおりたりというイメージはナイスなんですが。
なお、「エンジェル・ラダ―」というハープの曲はありません。私のでっち上げ…ひょっとしたらどこかにあるかもしれないけれど。