息詰まる緊張のなか、耳障りな空調の音だけが低く響いている。
気が付けば握り締めた拳のなかにじっとりと汗をかいていた。
「そっか…。やっぱりゼロのせい…」
血の気の薄い唇が、自嘲の笑みに歪む。
「ずいぶん巧く…そう、自分すら騙せてたのに、ヒイロは気付いていたんだね」
壁にもたれ掛かるようにして、カトルはヒイロから顔をそむける。
「カトル…」
咎めるように名を呼ばれ、笑みのかたちのまま頬が強張る。
「お前はどうありたい？ どんな自分でいれば満足なんだ？」
カトルは目を閉じ、何度も首を振った。
「僕は……トロワの望むようにはなれない」
「ねえヒイロ。以前の僕って…優しかったのかな？変わって、そして戻って？ 僕はどうなってしまうんだろう。優しさって一体何なのか、それすらわからないままなのに」
「トロワがそう言ったのか？」
カトルは力なく首肯く。
道標であったはずの言葉がいつしかカトルの枷となっていたのだろうか。
おそらく…『優しいカトル』というのはトロワの願いなのだ。
カトルのなかに見付けた願いがあの時のトロワの行動となって表れたのかもしれない。
彼を知らなかったぶん、ヒイロの方が戦士として冷静でいられただけのこと。
だが今の自分もまた、自分の感情に正直なカトルのひたむきさから目が離せないでいる。彼のそれとどれだけの違いがあるのだろう。
そしてそれが単なる幻想や虚構にすぎないとしても、人は皆そうやって他者と繋がり、支えあって生きているのだ。
ヒイロは深く息を吸い込み、諭すようにゆっくり言葉を紡ぎ始めた。
「カトル。お前がどうあろうとお前自身がお前だ。ゼロに乗っていたあの時も、そして今も。トロワは優しいお前を守りたかったのではない。お前自身を守りたかったんだ」
「ヒイロ…？」
いつになく冗舌なヒイロを、カトルは不思議そうに見返す。
その視線を正面から受けとめながら、ヒイロはさらに言葉を続けた。
「全てを受け入れる強さを持ちたいのなら、まず自分自身を受け入れろ」
一瞬息を呑んだカトルは、落ち着かない様子でそっと目を伏せた。
「弱さや…甘えた心も？」
「ああ、それもお前の一部だ」
くしゃりとカトルの表情が崩れて泣き笑いのような顔になる。
縋り付くようにのばされた細い指に、ヒイロはおずおずと自分のそれを絡ませた。
何もかもが曖昧であまりにも頼りなく、言葉すら上滑りしそうで。
ただ、指先から広がるゆるやかなぬくもりだけが互いの存在を確かなものだと伝えてくる。
潤んだ瞳のまま大きく首肯いてから、カトルは小さく首を傾げた。
「そう…そうだね。本当の償いはこれから始まるのかもしれない」
視線でその意味を問うと、絡み合った指はそのままで、カトルは照れ臭そうに目を伏せる。
「コロニーや資源衛星…僕の守りたかったもの全て、それに失われた命も含めて、宇宙に対する償いを考えたい。
その為にはまずこの戦いを終わらせなくちゃならないんだけど」
「宇宙…？」
「少し大袈裟すぎるかな？」
「いや、お前らしい」
幾分揶揄を含んだヒイロの言葉にカトルは少し頬を膨らませ、からまっていた指をするりとほどいた。
操縦桿を握るにはあまりにもたよりないそれを、カトルは俯いたままそっと胸に押しあてる。
「もちろん…まだここは苦しいけれど」
ゆっくりと顔を上げたカトルは、白い頬に柔らかな笑みをたたえた。
ふわりと華やいだ空気があたりに広がる。
「でも、君がいてくれる」
・・・・・・
宇宙空間には未だ多くの半壊したモビルスーツが漂っている。戦後処理に追われる資源衛星ＭＯ−Vはどこもかしこも慌ただしい。
唯一静かな医務室のベッドで、カトルはひとり点滴につながれぼんやりと白い天井を眺めていた。
戦いは終わった…。やり遂げたという達成感よりも、ようやく重荷を下ろしたという安堵感のほうが大きい。
不謹慎だろうかと自嘲気味に嗤えば、腹部の傷が鈍く痛んだ。
ふとドアの開く微かな音に視線を向ければ、サリィ・ポウの姿が目に入る。
微熱のけだるさと重たい手足。話をするのも億劫な気がして、カトルは眠ったふりを決め込むことにした。
うつらうつらしながら意識を広げていけばヒイロの存在が微かに感じられる。
だがそれ以上のことはあれから起こっていない。
もう二度とあのように心が重なることはないだろう。でもそれで十分だとカトルは思う。
（宇宙の心……か）
ものごころついた頃から自然とあったそれは、ずっとカトルの道標だったから。
何から話し始めよう、どうやって伝えればいいだろう。
近付いてくるヒイロの気配を感じたカトルは、その長い睫をゆっくりと押し上げる…。・・・・・僕の知っている唯一の真実は君・・・・・
「kathy's song」 by Paul Simon