ＢＡＣＫ　　

執務室　　　　
　

　

　磨かれた大きなデスク、毛足の長いカーペット。積み上げられた報告書の山は尽きることなく。
　Ｌ−４コロニー群の経済の中枢、ウィナー家の地上２７階建てビルの灯りはすでにまばらとなっている。
　窓の外は闇に包まれ、人々は皆家路を急ぐ。
　だが、カトルはひたすら黙々と書類に目を通しては時折ＰＣのモニターを覗きこむことを繰り返していた。

　静かな執務室は夜が更けるほどにカトルの心を落ち着かせる。
　硬い襟も窮屈な上着も背筋を伸ばす様にと促している気がして、おそらく誰も残っていないであろう取締役の個室が並ぶ階の一角で、タイも緩めずカトルはひとり仕事に打ち込んでいた。

　覚えなければならないことが多すぎて。
　何もかもが未熟で、部下の助言の是非を判断する術を持たないのがもどかしく。
　焦りと苛立ちがカトルを急きたてている。

｢出来る事を出来る範囲でなさればいいんですよ。１日も早くお父上と同じようにとお考えなのはわかりますが、無理は禁物です」
　ラシードに何度そうたしなめられた事だろう。
　胸に重いしこりを抱えたまま、カトルの肩は石のように強張っている。

（このままじゃ駄目だってことくらい、わかってる…）

　だが、どうあっても自室には戻りたくなかった。
　隣にしつらえた仮眠用のソファを簡易ベッドに替えて、ここで寝泊りをしようかと考えたくらいに。
　もしこの階にシャワーが備え付けられていたならば、本当にそうしていたかもしれない。

　新規資源衛星開発Ｂ−９。
　先日持ちこまれた巨大プロジェクトについての一連の企画書を読み終えると、カトルは大きく息を吐いた。
「今日くらいは日付が変わる前に仕事を終えたほうがいいかもしれないな。また姉さんたちに心配をかけてしまうし……」
　思わず独りごちてしまったカトルは、あたりを見回してからそっと苦笑いを浮かべた。どうやら疲れも極限に来ているらしい。
　スーツの窮屈さにようやく気付いて上着を脱ぎ、襟元を緩める。
　忘れていた開放感がカトルの体を包みこんだ。

　しばしコロニーの夜景を眺めてから空を見上げたカトルは、大きな丸い輝きに目を留める。

「月…か」
　故郷の空を真似た作り物…。コロニーに住むものにとってそれは見慣れた光景、ありふれた日常だ。
　だが、１度でも地球に降り立ったものは知っている。満ち欠けのない月ほど滑稽なものはない。

　刻々と変化していくあるがままの自然、そしてそこで過ごす日々が、どんなに素晴らしいかを。
　砂漠で見たそれは煌々と明るく輝く満月。
　海に映っていた月は、半分より心持膨らんで。
　眠れない夜、サンクキングダムの窓辺でながめたのは針のように細い下弦の月だった。

　思わずこぼれそうになった言葉をそっと飲みこむ。心の中で２度、それから唇の形だけで…。

（会いたい…な、みんなに）

　デュオのくるくると良く動く瞳が、トロワの静かな声が、五飛の真摯な眼差しが懐かしく、そして……。

　背中に震えが走ったカトルは、再び上着を羽織りタイを締めなおした。
　いったん切ったモニターのスイッチを再びＯＮにしてからコロニー議会の分厚いファイルを取りだし、情報整理に取りかかる。

（考えちゃいけない…）

　カタカタとキーボードのたてる硬質な音が空気の色を変えていく。
　時計の針が１２であわさりそしてまた離れていっても、執務室の灯りは眠らない。

　それがどんなに卑怯な逃げ方なのかはとっくに気が付いている。
　だが、行方すらわからない『彼』を１度求めてしまえば…きっと自分をおさえられなくなるから。

　顔を上げたカトルは、おもむろに口を開いた。

「だから今の僕には、そうすることしかできないんだ、ヒイロ！」

　執務室の隅々まで響き渡った叫びは瞬く間に呑み込まれ、あとに残るのはどこまでも深い沈黙……。　
　そうやって日々を重ねていけば、いつか本当に忘れる日が来るのだろうか。

　目をきつく閉じ、カトルは大きく頭を振った。
　だからもう、２度と考えてはいけないのだ…と。

　

　

＜あとがき＞
　オフライン小説「歪」で、ウィナー家に戻ったばかりのカトルがしばし塞ぎ込む、というエピソードがあります。これはそのあたりの話だったり…。すみません。
　で、見るに見かねたラシードがトロワに連絡を取り、カトルは笑顔を取り戻すのですが…。さて、どうなることやら？？