PIANO

　

　ぱたぱたぱたぱた……。ああ、こんな風に廊下を走るとまた、子供っぽいとイザークに怒鳴られる。
　そう思いながらも僕ははやる心を押さえられない。
　今日からオフの彼は今頃自室で荷物をまとめている頃だろう。それまでにどうしても聞いておきたいことがある。

　

「イザーク！」
　飛び込むように部屋へ入ったというのに、イザークはカバンに手を掛けたまま振り向きもしない。
「貴様、何度同じことを言われればわかる」
　不貞腐れたようなそっけない言い方。うん大丈夫、今なら機嫌は悪くなさそうだ。
「たった今オロール先輩から聞いたんですけど、ピアノ弾けるんですか？」

　一瞬の沈黙と共にイザークの背中が強張った。
　もしかしてこれは地雷？　触れてはいけなかったんだろうか。
　気まずいながらどうにも気になって、僕はもう一度繰り返す。
「ピアノです、弾けるんでしょう？」
「……まあ、そうだ。情操教育の一環とかで、アカデミーに入るまで習わされた」
「上手だったそうですね」
「そこそこだ。いい加減なことはしたくなかったからな」
　いかにも彼らしい言葉に僕は頷く。
「じゃあ、イザークはどんな曲が得意だったんですか？」
「……ハノンのアルペジオ」　
「ハノン…って、あの指の練習曲の？」
「より正確に美しい音を出す。その点だけは文句なしに誉められた」
　正確にって射撃の練習じゃあるまいし。どうやらピアノは全く情操教育の役にたたなかったらしい。

「おまえならサティあたりが得意そうだな」
「サティ、いいですね。だけどどちらかというと僕はドビュッシーがいいかな。あとリストも好きなんですけどあまり手が大きくなかったから。いつかラ・カンパネラを弾いてみたいとずっと思ってました」
　憧れの曲、響きわたる鐘の音―――あれだけの超絶技巧曲を弾くには毎日何時間もの練習が必要で、だからもう弾くことはないでしょうけれど。
　喉まで出掛かった言葉をぐっと呑み込み、話を続ける。
「でもマティウス市の子ども音楽祭でハノンを弾いたわけではないでしょう？　隠さないで教えてください」
　真正面から彼を見据え、真っすぐ問い掛ける。
　こういうのにすごく弱いイザークは、ついっと視線を逸らしすぐ白旗を挙げた。
「…バッハだ。バッハのインベンション、１番」

　そんなに一々溜めてから話さなくてもいいと思うのに。アスランは子どもの頃バイオリンを、ディアッカも確か楽器を習ってた筈、ううん今も習ってる…のかな。決して恥ずかしいことじゃない。
「主題が…」
「え？」
「主題がつぎつぎと色々なかたちで追い掛けていくのが面白かったんだ。発表会向けな曲ではないと言われたが、どうしてもあれがよかった」
　そういうことなら僕にもわかる。ほら、やっぱりイザークの情操教育とやらは成功だったわけで。
「今度僕に聞かせてくれませんか？」
「指が動くもんか。大体音楽祭に出たのは１０の時だったんだからな」
　１０歳で解釈の難しいバッハを弾かせてもらえる…それはそこそこなんてレベルじゃないでしょう？　
　意外な一面を知ることが出来た僕は嬉しくてたまらない。
「長いこと弾いていないのは僕も一緒ですよ」
「いつかそのうちな」
「そんな曖昧な言葉で誤魔化さないでください。お家にはまだピアノがあるんでしょう？これから聞かせてください」
　気分がハイになった僕はしつこく食い下がった。このくらい言わなきゃ、絶対イザークは首を縦に振らない。
「これからだぁ〜？」
「イザークはこれからオフなんでしょう？　おうちに帰るつもりだって聞いてます」
「ああ」
「僕もなんです。急な変更で今日明日といきなりオフになっちゃってどうしていいか困ってて。ここからだと家はかなり遠いですし、無理して帰ったところで今は父も母も今留守だから。これから何か予定有ります？　もし良かったら…あの、その…」
「荷物は？」
「えっ…？！」
「三分でまとめてこい。でなければ置いていく」
「はいっ！」
「おまえもバッハを弾けよ。そうだな、『主よ、人の望みの喜びよ』あたりでどうだ？」
「そんな……インベンションより何倍も長いじゃないですか」

　わざと不満げな顔をしながら心の中でそっと微笑む。
　無関心を装っていながらちゃんとイザークは僕のことを知っていてくれた。アカデミー卒業直前に有志でやった小さなコンサート。人前でこの曲を弾いたのはあの時だけの筈。
　大慌てで荷物を取りに戻った僕は、イザークの背を追ってまた廊下を駆けだす。

　ねえ、イザーク。だから、だから僕は。
　どうあってもあなたから離れられない。

　

<あとがきっていうか、トークもどき> ええっと……あの…つまりただそれだけの話だったり（爆）。 ピアノ好きさんにはたまらない仕上がりになっていると思うのですがいかがでしょう？ カトルにはよくショパンを弾かせるので、ニコルにはドビュッシーとリストを♪ バッハの『主よ…』は名曲ですよ〜。目を閉じニコルが弾いているところを想像してみましょう。 それとこの曲には連弾の楽譜もあります。 二人で弾くのもいいですね〜。 ドラマＣＤでのイザークの楽器なら少しは…発言。 実は私、イザークに一番似合うのはバイオリンだと思ってます。 でもこの話では、あえてピアノにしてみました。ふむ、これもなかなか。 フルートなんかも良いですね♪　あと、大穴で胡弓とか。 ちなみにディアッカは三味線（笑）。 彼の日本舞踊という設定はかなり驚きましたが、イザークの民俗学もちょっと以外でした。 っていうか、未だに民俗学って私、よくわかりません。 学生時代、某民俗学博物館の図書部でバイトしたこともあるんですが。 『素顔のアメリカポルノ映画』とか、そんな本ばっかり盗み読みしてたからなあ。 今回のお付き合いモードな２人は書いててとても楽しかったです。 しかもニコル、イザークの扱い方(？)を心得ててやたら積極的だし。 どうやら私、イザークの動かし方が分からないみたい。で、ついニコルの一人称話に。 ……精進いたします。