ＢＡＣＫ 　　　　　 声 　 　　　　 　細い注ぎ口からいつもと違った香りがただよっている。トロワにポットを手渡した女性は詫びの言葉を口にしながらも、底抜けに明るい笑顔で小さく会釈した。 「…紅茶」 　痛む体を誤魔化しつつ上体を起こしたヒイロの呟きを、トロワは逃す事無く受けとめる。 「キャスリンがコーヒーを切らせてしまったらしい。団長の秘蔵の紅茶を貰ってきたから許せと言っている」 「別にかまわない」 　右腕をのばして受け取り、一旦サイドテーブルに置く。左腕はまだ不自由で到底使い物にならない。 　すっかり馴染んだカップに満たされた液体はいつもより明るい色をたたえており、独特の香気が鼻を擽った。差し出された角砂糖を一つ紅茶に落とし込み、匙を使おうとヒイロは顔を上げる。 「――？」 　整った面差しに似合うディープグリーンの双眸が微かに揺れた。それはトロワが何かを話し始めるときの合図だ。 「地球にきてから紅茶を飲むのは二度目だ」 「それで？」 「最初に飲んだのは砂漠だ。ニューエドワーズで俺と一緒にいた奴を知っているか？」 「……声だけ」 　一瞬の狼狽が舌を凍り付かせる。顔も知らぬ相手の言葉に些かの疑いも持つ事無く従い、自爆装置の解除に向かったあの時。 　結果的にはそれで正しかった訳だが、いくら迷っている暇などなかったとはいえ今思えば普通では考えられないことだ。 「カトル・ラバーバ・ウィナーと名乗った」 　動揺を押さえきれないまま、ヒイロはトロワの顔を直視する。 「ウィナー？」 　まさか、という思いが顔に出ているのに気付いたのだろう、トロワは、淡々と言葉を補う。 「偽名としてウィナー姓を使うことにメリットがあるとは思えない」 「そうだな」 　確かにあの声には、人を使うことに慣れた者だけが持つ独特の響きがあった。そう、たとえばリリーナ・ドーリアンのように。 （だからなのか？） 　ずっと感じていた違和感の正体。そんなものに振り回された事実がいまいましくさえ感じられ、ヒイロは小さく舌打ちをする。 「おかしな奴だ。そういう立場にいるのなら尚更、ガンダムのパイロットなどという汚れ仕事ではなく他にすべきことがあるだろうに。わざわざ名を明かすとは、単に世間知らずなのか、それとも…」 「それとも…？」 　一瞬の沈黙ののち、トロワは「いや」と眉を寄せた。 「カトル…ウィナー…」 　ヒイロの脳裏にはっきりとあの日の言葉がよみがえる。 「了解しました！　あなたに賭けさせてもらいます」 　まっすぐに心に届く凛とした声。 　通信機を通して聞こえてくる指示はヒイロの一切の迷いを消し去り、なすべき方向へと導いてくれた。 　そして全てが終わったときのためのシャトルの準備まで。 　的確かつ周到、としか言いようのない手際の良さに何度も驚かされたあの時。 「確かに、おかしな奴だった」 「ああ」 　トロワの目元に、柔らかな色が滲むのが見て取れた。ほんの少し眉を上げてから、ヒイロも自分では気づかぬままそっと笑みを浮かべる。 「無事なのか？」 「おそらく」 「そうか」 　そっくりな機体、同じ任務――あれだけ何もかも似ていれば、トロワとてやはり気になるのだろう。 （あの声…あの響きが俺を導いた） 　まだとても立ち歩けるような状態ではない。だが、想いはどこへでも出かけ、考える時間だけは十分過ぎるほどにある。 　まだ温もりの残るカップをトロワに手渡し、ヒイロは再びシーツに身を沈める。 　閉じた瞼のその裏に、碧い海の幻を見たような気がした。 　 　 　 　 ＜あとがき＞ 某誌の小説の書き方の記事で、三点リーダー、いわゆる「…」というのは控えるようにとありました。使わなかったら書けないよぉっと思わず叫んでしまった私。特にこんな無口な奴らはね。 ５年前からずっと憧れていた二人の会話。ようやく形に出来ましたが、とりあえず轟沈としかいいようがない気が(爆)。