教室棟に続く渡り廊下の手前で運動着姿の女生徒たちに掴まったカトルは、ヒイロ・ユイという名前について質問攻めにあってしまった。
　人を寄せ付けない雰囲気をもつヒイロに比べ、物腰が柔らかで貴公子然としたカトルのほうが声をかけやすいのだろう。

　女系家族で育った彼の対応は手慣れたものだ。
　ヒイロと同じ名を持つ『彼』は、かつてのサンクキングダムの元首と同様、宇宙で完全平和主義を目指した人物だということ、
　どういう理由で彼女がヒイロに絡むのかはわからないと簡単に説明すると、とりあえず満足したのか少女たちは慌てたように更衣室へと戻っていった。

　宇宙でもここでも変わりのないその姿……ちいさな群れをつくっては身の回りで起こるささいな出来事に一喜一憂し、無邪気に笑いさざめく。
　資産も身分もある家に生まれ、その恩恵をあたりまえのものとして受けてきた彼女たちにとって、戦争は未だ別世界のように遠い出来事なのだ。

　だが、ドロシー・カタロニアだけは明らかに違う視点を持っている。好奇心だけでヒイロ・ユイという名の意味を知っているとは思えない。

　ふと、どこかに隠しカメラやマイクが…という不安に駆られ、カトルはあたりを見回した。
　だが壁や天井はもちろんのこと、床や窓枠までが全て古色蒼然としている。
　跡も残さずそういった類を仕掛けるのは容易ではないだろう。

　このような、時代を感じさせる造りを目のあたりにすると、何もかもが歴史のほんの一ページにすぎないように思えてくる。
　だがこの巨大な建物ですら、ひとたび攻撃を受ければすぐに瓦礫の山と化してしまうのだ。

　あちらこちらで同じような光景を見、多くの死に遭遇してきた。
　人だけではない、動物も植物も。全ては圧倒的な武力の前になすすべもなく屈していく。
　それは今、ガンダムを持たない自分とて同じこと…。



　音楽室へ続く階段の踊り場まで足を運べば、またピアノの音が聞こえはじめた。
　昨日のゆったりとした曲とは違う軽快なメロディーが、カトルの耳をリズミカルに擽る。
　深みのある響き、豊かな音量…。今日はレッスン室ではなく、グランドピアノを利用しているようだ。

　お喋りに興じることなく着替えを終えればこの時間にここにいることも可能だろう。
　それはとても彼女らしいことに思えた。

　しばし立ち止まり、填め殺しの窓から外を眺めつつ調べに聞き入る。
　明るく晴れ渡った空遠く、小さな銀色の飛行機が白い雲をたなびかせていた。
　このメロディーはかつてどこかで…と考えてみるがどうしても思い出せない。

「ショパンの『黒鍵』。右手の主旋律に黒い鍵盤を使ったエチュードですのよ」

　芝居がかった物言いに思わず顔を上げれば、扉のそばでドロシーが長い髪をかきあげながらカトルを見下ろしている。

「よろしかったらあなたもお弾きになりません？　ここには色々な楽譜が揃っていますし」
「僕にはとてもあのようには…。素晴らしい技術と表現力ですね。羨ましいかぎりです」

　素直に賞讃の言葉を告げれば、少女は不満げに首を傾げた。

「カトル・ラバーバ・ウィナー。やはりあなたは本名でいらっしゃるのね」

　冴々としたアイスブルーの瞳がすっと細められる。

「あなたとリリーナ様はとてもよく似ている。でも…」

　踊るような足取りで階段を降りてくると、少女はすれ違いざまに低く囁いた。


「わたくし、あなたのことは嫌いです」




　あまりにもストレートな物言いに、カトルは一瞬自分が何をいわれたのか理解できないでいた。
　おもむろに振り返ってみれば、既にドロシーの姿は消えている。

　他人から向けられる理由のわからない悪意。
　ウィナー家の跡取りとして育てられたカトルは、幼いころから何度もそうした感情に曝されてきた。
　それでも決して慣れるわけではない。どうやってやり過ごすかには、少しばかり長けているけれど。

　胸を覆っていく負の感情を追い出そうと大きく息を吐き、足を引きずるようにして木製の階段を上っていく。
　震える指でドアを開け部屋へ滑り込んでみたものの、ピアノを弾く気にはなれず窓際へ向かった。

　天井まで届く広い窓からは学園の広い中庭が見渡せる。
　だが豊かに生い茂った常緑樹の緑も、心を慰めてはくれない。

　視線を空に移せば、一筋の雲の帯が僅かに輪郭を崩しながら青い空を二つに分けていた。
　あちら側とこちら側、支配する者とされる者。軍人と民間人、コロニーと地球、異なる文化や言葉を持った人々。

「平和を愛し戦いを厭う気持ちをずっと持っていたつもりだった。でも僕は…」

　ピアノに近寄り、そっとその蓋を開ける。
　ずらりと並ぶ鍵盤は黒と白の二色。そう、人の心にはそのどちらも存在しているのだから。

（嫌ってくれてかまわない。そうされるだけの罪を僕は犯してきた）

　勢いに任せて指を鍵盤に叩きつければ、不協和音の残響がカトルの胸をじわじわと締め付けていく。

「………トロ…ワ……」

　今だけは感情に流されてもかまわないだろう。
　ピアノの脚に額を押しつけ、カトルは座り込む。
　明るい陽射しの溢れる床に、幾つもの雫がこぼれていった。 　 　



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