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コーヒーがテーブルの上に置かれると、男は小さな壜に入った焼き菓子を取り出してきた。
一つつまむと、突っ立ったままの少年の手のひらに落としこむ。
勧められるままに口にしたそれはひどく甘ったるく、少年は顔をしかめた。
男はソファに腰掛けたまま、そんな姿を楽しそうに眺めている。
どちらにせよろくなことが起きないに決まっていると、少年はうんざりしながら男の言葉を待った。
「握手、という習慣は知っているな」
「Ｌー１ではあまり一般的ではない」
「触れることで、自分は敵意を持っていないという意志を相手に伝えるわけだ。利き腕を差しだすのにもそれなりの意味がある。まあ、現代社会ではかなり儀礼的なものだが」
「何が言いたい？」
挑発するかのように、わざと生意気な口をきく。『その程度』と評された少年の、子供じみた精一杯の抵抗だった。
「普通、気に入らない奴や知らない奴に必要以上に近付いたり触れたりするのは嫌なものだ」
「だろうな」
「あの女は好みのタイプじゃなかったか？」
「そんなことは考えたこともない」
男は少年の手をそっとひいて自分の隣に腰掛けさせた。
「俺に近付くのはどうだ？」
「さっきよりはましだ」
男は手にしたコーヒーを一気に飲み干し、満足気に微笑んだ。
「そう、お前はおれと共に時間を過ごした。最初に会った時と比べていくらか敵意が薄れているはずだ」
「なるほど…」
「だが、こうするとどうかな？」
乱暴に顎を掴まれ、再び男の唇が重ねられる。
少年は、一瞬身を強ばらせたが、すぐに緊張を解いた。期待に応えなければならないからだ。
だが、歯列を割って舌が入り込んできたとたん、ぞっとするような嫌悪が背筋を這い上ってきた。
思わず身を捩るが、大人の力にかなうはずもない。
口中を隅々まで探りまわし、唇の裏側まで丹念に舌を這わすと、やっと男は離れた。
「心を殺せ。何も考えないようにしてみろ。体を預ければ、相手はお前が自分に敵意を持っていないと思い込む。過剰にならない程度に悦びを表現すれば、なお良いな。相手に隙が出来る」
「相手に…隙…」
保身のために覚えろといった男の言葉の意味を、少年は今ようやく理解する。
「体はただの入れ物だ。そんなものに触れることに意味はない。そう思えばなんでもないだろう」
「お前の言うことは矛盾している」
「矛盾はないさ。お前は自分の体をそのように扱えば良い。向こうはそう思わないだけのことだ。だが、知識が無ければ自分の扱い方もわからない。それを教えるのが俺の仕事だ」
「お前にとっても俺の体はただの入れ物か？」
「ちょっと違うな。俺は今回の生徒がお前であることを喜んでいるよ。こんなに綺麗でしなやかな体を、仕事とはいえ自由に出来るんだからな」
「お前は女よりも男が好きなのか？」
憮然として少年は問い掛ける。
「美しいものは魅力的だ。男も女も関係ない。おまえはそう思わないか？」
少年はついに口を噤んだ。魅力的という言葉の意味を、知ってはいても理解できなかったからだ。
「決して抵抗はするな。お前の身のためにもな。一つ一つ全て教えてやるから、なるべく早く覚えろ」
「了解した」
「よし、良い子だ」
顔色一つかえないで、少年は男に体を預けた。 不快なことは、目を瞑ってやり過ごせば済む…。
だが、事はそんなに簡単ではないのを、じきに少年は身を持って知ることになる。
何も感じないつもりだった。初めて人を殺したときでさえ、ここまで動揺しなかったような気がする。
全身を男の指が這い回ったときも、隠すべき部分に直接触れられたときも、少年は心を殺すべく努力をし、なんとか耐え切った。微かだが、快感と呼べそうな何かを感じることも出来た。
だが、それだけですむはずもない…。
男が男に抱かれる場合、貫かれる部分がどこかということを薄々知ってはいた。
だが、実際に触れられたとたん、全身が総毛立つのを押さえられない。指で弄られるたびに嘔吐感が込み上げてくる。
丹念にほぐされたとはいえ、男のモノが押し入ってくる苦痛は想像を絶するものだ。
肉体だけではなく精神までもが蹂躙されていくその感覚に、耐え切れなくなった彼は一度だけ小さな悲鳴を上げた。
今までどんな種類の痛みにも、声など上げたことはなかったというのに。
……それは、少年の敗北の証だった。
少年は、屈辱感に打ちのめされてベッドから起き上がることも出来なかった。
そして、再びあの言葉が男の口から紡ぎだされるのを待った。
自分は結局『その程度』なのだと。
だが、男の言葉は予想されたものとはまったく違っていた。
「末恐ろしい精神力だな、お前は」
意味が理解できなくて、少年は思わず顔を上げる。
「お前に食べさせた菓子は、かなりの量の媚薬が含まれていた。普通なら、我を忘れるほどに乱れるんだが」
「薬物投与に屈しないよう、それなりの訓練は積んでいる」
「薬物…か。たしかにそうだが」
男はくつくつと可笑しそうに笑う。
「まあ、初めてにしては上出来だ。次の段階では、されるばかりではなく、するほうも覚えてもらうからな」
「俺がつっこむのか？」
「違う。ただじっとしているだけじゃ人形と同じだろう？ 媚の売り方や、相手を喜ばせる方法を覚えるんだ。声をあげるタイミングもな。もちろん悲鳴は厳禁だぞ」
どうやらこの男は、人をやり込める術にも長けているらしい。少年は三度目の屈辱に打ちのめされ、唇を噛んだ。
「ほれ、こい。体を洗ってやる」
負け犬に選択の余地はない。 少年はその言葉に従って渋々体を起こした。腰が抜けるように怠く、嘔吐感もまだ残っている。
だが、差し出された手のひらは奇妙に暖かい。その手にすがるようにして、少年はバスルームに向かった。
男は、自分のもっている経験と技術を、伝えられるかぎり少年に教え込んだ。
そして少年は努力し、ほぼ完璧にその技を覚えた。
５日目に、再びあの少女との同衾を命じられたが、少年はまたもや任務を果たすことが出来なかった。
「お前はまったく…」
呆れ返ったように、男は再びため息を吐く。
「まあいい。今のお前の年齢なら、これまで教えたことで十分だ。あとは経験を積むんだな」
「どういう意味だ？」
「俺が教えるのはここまでだ。明日からは別の人間が来る」
「まだ学ぶべきことが残っているのか」
これ以上はうんざりだ、といわんばかりに少年は言葉を投げつける。
「色々な相手がいるからな。臨機応変に対応出来ないといけないだろう？」
「そういうものなのか？」
「あたりまえだ。相手は人間だぞ。コンピューターと違ってアクセスの仕方は幾通りもある。だがまあ、お前は優秀なほうだ、コツを心得ている」
技術点だけなら満点だ、と男は言い添えた。
「だが、ただの一度も欲情したことがないというのは最大のマイナスポイントだな。この５日間、ついにお前はいかなかった」
「それは…俺の責任ではない。俺はそういうふうに育てられた」
「そうだろうさ。たいした『教育』だよ」
皮肉めいた笑みを浮かべて、男は去っていった。
後日、少年はあの男が早々にいなくなった理由を、施設の大人達の無責任な噂話から知ることになる。
『あの男は、ボーイにかなり御執心だった。ほおっておくとここから連れ出しかねないと、上の者が危惧したらしい』
噂の真偽は明らかではない。
だが、男の手のひらを思い出すたびに、ひょっとしたらそのようなことがあったのかもしれない、と少年は思うのだった。