「この道は車が行き来するためのもので、あの上の方の細い道はたぶん人が山に登ることを楽しむために作られたものだと思う。
　だから、あの辺りまでいけば、きっと山小屋か何か建物があるはずだよ。
　麓は戦闘で大分荒れているから廃屋の可能性が高いけれど、僕達にとってはそのほうが都合がいいだろう。
　うまくいけば、野宿しないですむ」

　森に向かう山道を登ってくる途中、カトルはそう話していた。
　とりあえず、ヒイロはその言葉を信じて進んでいく。

　山奥での戦闘の結果だろう、立ち枯れの木や焼け跡が所々にみられ、草一つ生えていない剥出しの土地もあった。薬剤がまかれたのだろう。
　緩やかな斜面がつづく地形では風を防ぐ場所を見付けるのも難しく、さすがのヒイロも、腕のなかの重みに音をあげそうになった。


　やがて木立の向こうに木造の小さな建物があらわれた。
　カトルの判断の確かさにヒイロは舌を巻く。

　道傍の柔らかそうな砂地にカトルをそっと降ろすと、ヒイロは銃を手にし扉に手を掛けた。
　足元に生い茂っている草が、この建物に長い間人が出入りしていなかったことを伝えている。

　室内は締め切っていたせいで少し埃臭いほかは取り立てて問題もなく、清潔だった。
　外観だけでなく内装も木がふんだんに使われていて、少し前まで人が住んでいたのではないかと思われるような暖かい雰囲気がある。

　ヒイロは再びカトルを抱き上げ、部屋の中央に敷かれた分厚いラグまで運んでいった。
　カトルはぴくりとも動かない。

　自分に関しては、骨折の治療法から、自殺の仕方まで学習させられたヒイロだが、他人の面倒をみるのは、あまり得意ではない。
　自分を庇護してくれたトロワのやり方を真似て部屋の片隅のチェストからタオルを取りだし、カトルの汗と血糊を拭きとってやる。
　奥の部屋にベッドを見付けたヒイロは、迷った挙げ句に毛布をかかえてきて、横たわるカトルをそっと包んだ。

　左手の甲を、かなりひどく擦り剥いている。血が乾きかけているところをみると、先程の戦闘のものではないようだ。
　傷の痛みを気にしていたら戦えない。
　だが心の痛みは人の判断を迷わせ、思いもよらぬミスを生む。

　チェストのうえに薬箱を見付けたヒイロは、カトルの傷を消毒してやり、自分にも少し振り掛ける。
　コロニー育ちは地球の雑菌に対する抵抗力が少ない。
　化膿止めの錠剤を見付けたヒイロは、一つ口に含むと箱ごと荷物に放りこんだ。

　荷物から取り出したミネラルウオーターの壜を開け、カトルの喉に薬を口移しで流し込む。
　飲み下す音がして、カトルは薄目を開けた。

「気分はどうだ？」

「ここは？」

「おまえの判断は正しかった。今日は野宿しないですみそうだ」

「そう…」

　微かに伝わってくる感情は穏やかだ。
　カトルは唇を指でそっと拭うと、ヒイロを不思議そうに見返した。

「水…？」

「化膿止めを飲ませた。左手の傷口が泥まみれだったから」

　手当てされた傷をみて、カトルはふわりと微笑む。

「ありがとう、ヒイロ」

　まっすぐで純粋な感謝の言葉に、ヒイロはニューエドワーズで出会ったあの時と同じ響きを感じた。
　自分を信じてくれる者に対して持ってしまう、身勝手ともいえるほのかな感情。
　トロワがあの時語った『優しいカトル』も同じようなものかもしれないと、ふとヒイロは思った。

　カトルに期待し、それに応えてくれなかったと知ったときの月基地での自分の行動は、浅ましいとしかいいようがない。
　そのうえ過ちを犯したカトルに、ヒイロはノベンタ元帥の乗ったシャトルを打ち落としてしまった自分を重ねている。
　不毛な連帯感だと幾度も思った。

　それでも今は、カトルの傍にいて心地好いと感じている事実を否定できない。
　その気持ちに無理に逆らう必要もないだろうと、ヒイロはカトルの隣に腰をおろした。

「携帯用の非常食料しかないが、食えるか？」

「ありがとう、でも今はいいよ。それよりもう少し水をもらえる？　まだ歩けそうもないんだ」

　ヒイロは傍にあった壜をカトルに握らせ、肩を支えてゆっくりと起こしてやる。
　その途端、カトルの心にさざ波がたつのをヒイロは感じとった。

　カトルの細い指がヒイロの胸元をそっとつかむ。
　閉じた目蓋の端から、涙が一筋こぼれ落ちた。

　壜が床を転がっていく鈍い音を聞きながら、ヒイロは、カトルの頬を拭ってやる。

「ごめん…少しの間だけ…このままで…」

　伝わってくる痛みはいくらか甘く、ヒイロの胸をも切なくさせた。

（この悲しみは、カトルの…？　それとも自分のものなのだろうか…）

　カトルの心を通して、ヒイロは今まで心の奥底で眠っていたものを呼び覚ましてしまった。
『淋しさ』と名付けられたその感情は、今まで自覚したことがなかったものだ。

　躊躇いながらも、ヒイロは肩にかけていた指をカトルの背中にまわした。
　カトルもおそるおそるヒイロに身体を預けてくる。

「カトル…」

　そっと呼び掛けると、身体からふわりと力が抜けていく。布地ごしに感じる頬の柔らかさが、ヒイロを落ち着かない気分にさせた。

　意を決して、ヒイロはカトルを抱いたまま、毛布の下にもぐり込んだ。
　カトルの小さなすすり泣きが、ヒイロの心を幾度も揺らし、そのたびにヒイロはカトルの背中を撫でては宥める。

　やがて二人は子犬のように身を寄せあって眠りに落ちていった。



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