サンクキングダムに滞在してからカトルは毎日のように音楽室に通っていた。
ピアノを弾くことで気持ちが落ち着くのか塞ぎ込むことも少なくなり、徐々に瞳に輝きが戻り始めている。
ピアノの上手な金髪の貴公子は、どこかの王族の子弟のお忍び留学らしいという噂がたつほどに、カトルは女生徒達の憧れの的となっていた。
実の所ヒイロにもカトルと同じくらいファンがいるのだが、近寄りがたい雰囲気をもつ東洋の少年に積極的に話し掛けようとする勇気を持ち合わせている者は殆どいない。
そして、ヒイロは実はカトルの乳兄弟なのだとか血のつながらない従兄だとか、さまざまな憶測が飛びかっていた。
カトル自身はまだ女生徒との会話を楽しむ気持ちにはなれなかったが、元来フェミニストで女性の扱いに慣れていることもあって(姉の人数を考えればおのずから身につく技術だ) 集まってくる少女たちには当たらず障らずで接しており、ますます彼女たちの好奇心を煽る結果になっている。
謎の多い二人の転校生は、夢見がちな年ごろの女生徒たちの退屈しのぎの格好の玩具といったところだろうか。
そんな彼女達にも音楽室を聖域とする不文律があるらしく、カトルがピアノを弾いているときには誰も近寄らない。
必然的にカトルは音楽室にこもることが多くなっていた。
ノインもその辺りのことを心得て、用事があるときには音楽室までやってくる。
一方、ヒイロは半分くらいしか授業にでていない。一日の大半を図書室で過ごしていた。
昼間のコンピュータールームは人の出入りが頻繁で、堂々とハッキングをするわけにもいかない。
時にはサンクキングダムのメインコンピューターに侵入したりするので尚更だ。
八時を過ぎてから情報収集に出掛けるのがヒイロの日課となっている。
夕食後、部屋で情報を交換しあって二人でＯＺの動きを検討。それ以外は別々の行動をとるという生活パターンが、いつのまにか出来上がっていた。
ヒイロにばかりハッキングさせるのに気が咎めたカトルは、一度だけ手伝おうとしたことがあった。
だが、小一時間もしないうちに技術の違いを見せ付けられ、それ以来すっかりヒイロに任せきりになっている…。
その日もヒイロは出かけたまま、十二時を過ぎても部屋に帰ってこなかった。
昼間、図書室で何度も仮眠をとっているため、体力的には全く平気なのだろう。
カトルは一旦ベッドに入ったもののなかなか寝付かれず、ガウンを羽織ってリビングに戻っていた。
昇ったばかりの下限の月が厚い雲に見え隠れして、闇の深さを刻々と変えている。
窓際のソファに腰をおろしたカトルの双眸は、その景色に釘づけになったままだ。
コロニーと地球。その違いを見せ付けられるたびに、カトルの想いは宇宙へと戻っていた。
閉ざされた空間での人の出入りや生き死には、地球とは比べものにならないくらい管理が厳密になっている。
人口や性別・年令比などを随時把握しておかなければ、維持管理に差し支えるからだ。
ヒイロが引き出したあの一件以後の死者の名簿のなかに、トロワらしき人物は見られなかった。生存の可能性はかなり高いだろう。
彼がガンダムパイロットであると知られていたのならば、データを抹消されている可能性もあるのだが。
あの日以来、ヒイロはトロワについては一言も触れない。
無表情で得られた情報のみを淡々と語るその心は、以前にもまして堅く閉ざされているように見える。
今のカトルにとってヒイロを知る術は、僅かな同調によって伝わってくる感情の輪郭だけだ。
なのに、殆ど出会わないのではそれすら感じられない。
日毎にヒイロが遠くなっていくような気がしてカトルは焦燥する。
初登校の朝にはあんなに身近に感じられたというのに。
カトルも久し振りに弾けるピアノに夢中になっていた位だから、ヒイロが図書室に入り浸りになるのもわからなくはない。
でも…。
（最近のヒイロは、僕を情報を引き出す端末としか見ていない）
どうして急に態度が変わってしまったのか。考えられる理由はただ一つ。
一方的な強い同調に耐えられなくなったヒイロは、単に自己防衛の手段にでたのだろう。そう、ただそれだけのこと。
わかっていたのに。わかっていたけれど。
いつのまにかヒイロの優しさに甘えていた。ヒイロがいたからこそ、何とかここまで歩いてこれたのだ…。
「…？！」
頬に伝わっていく熱いものを感じたカトルは、思わず目をしばたいた。
「涙？ 僕は泣いているのか…」
急に山小屋のあの夜が思い出されて、カトルの胸は切なさに満たされた。
小さな子供が母親の温もりを求めて泣いているようで情けないと思いつつも、カトルの涙は止まらない。
涙と共に、押さえ切れなくなった今までの想いや記憶が次から次へと溢れだして、カトルを押し流す。
激流に身を委ねて、カトルはしばらくの間泣き続けた…。
一度爆発させてしまえば、感情というのは落ち着くものなのだろうか？
五分も泣いたのち、涙でべたべたになった頬と手を洗ってしまうと、カトルはなんとか平静心を取り戻した。
（ヒイロに伝わってなければいいんだけど…）
自分の弱さを見せ付けられたようで、ただ嗤うしかない。
時計の針は既に一時をまわっている。
寝室に戻ろうと立ち上がったその時、静かにドアが開いてヒイロが戻ってきた。
泣き腫らした顔を見せるのを躊躇したものの今更逃げだすわけにもいかず、カトルは無理遣り笑顔を作ってヒイロを迎える。
「おかえりなさい。あれ、それは？」
部屋に入るなり、ヒイロは小脇に抱えた平たい箱の包装を剥がし始めた。
「連絡用の端末だ。ちょっとした情報もこれを使えば引き出せるとノインがよこした」
そう言うと、手際よくライティングデスクに据え付けていく。
全くいつもと変わらない様子にカトルは安堵した。
伝わっていないのか、ふりをしているだけなのか。
どちらにしてもこの状況はありがたい。
「何か新しい情報はあった？」
「ここ数日、近隣の軍事施設に輸送機の出入りが激しい。こちらに仕掛けてくるのも時間の問題だろう」
「思っていたより早いな。やっぱりそれだけ問題視されているってことなんだ…。ほかには？」
「別に」
「そう」
やはり、トロワの情報は得られなかったのだ。
再び込み上げてくる負の感情を押さえ切れず、カトルは慌てた。
この距離ならば今度こそ伝わってしまう。
「ごめん、ヒイロ…」
「何がだ？」
「だって…」
暗黙の了解になっていたこの現象をはっきりとは言い出せず、カトルは俯く。
「俺には関係ない」
きっぱりとしたその物言いに、カトルの肩が小さく震えた。
「どういう…こと？」
「お前がどんな理由で泣こうが、もう俺には関係ない」
「ヒイロ…それって…」
同調は起こらなくなった。そう言う意味だとカトルは瞬時に理解する。
「良かった…。もう僕に振り回されることはないんだね」
情報端末として。同じロームフェラに敵対するものとして。
ヒイロとの繋がりはついにそれだけになってしまったのだ。
顔を上げたカトルは、ヒイロに笑ってみせた。
曖昧さと偽りでくるんだ笑顔。いつも女生徒たちに向けている仮面そのままに。
そしてヒイロは静かに首肯く。
二人の間には、埋めようのない深い亀裂が生じていた。
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