翌日。学園はいつもと変わりない朝を迎えた。
だが、カトルたちの寝起きする東館は人の出入りが激しく、いつもより緊張した空気に包まれている。
目覚めたとき、すでに部屋にはヒイロの姿がなかった。
直観的に何かが起こったことを悟ったカトルは、朝食もそこそこに端末から情報を引き出す。
追い詰められたトレーズ派がサンクキングダム領内に逃げ込み、ロームフェラ側から戦闘許可申請が出されている。
ノインから至急東館地下二階までくるようにというメールも届いていた。
（ついに始まった…）
ヒイロは既に動いているのだろう。カトルは急いでノインのもとに向かった。
学生ごっこは終わってしまった。今は出来ることを出来るかぎりやるしかないのだ…。
サンクキングダムの武力は僅かなものだったが、ガンダムパイロットが二人加わっただけで何倍もの力となる。
ヒイロの作戦も効を奏し、モビルドール部隊は戦闘不能となった。
だが、この日を境に、サンクキングダムはルクセンブルクと共にもっとも問題視される存在となってしまう。
森の中でモビルスーツ戦があったという噂を漏れ聞いた少女たちは、学園のあちらこちらでこれからの不安を小声で語り合っていた。
だが、それも束の間のこと。
平穏な日々を三日も過ごすと、皆いつもの生活に戻っていく。
空席がちになった二人の少年について、想像にすぎない噂話が時折飛び交う以外には。
ヒイロは全く授業に出なくなっていた。
部屋は眠るためだけの場所にすぎず、図書室にも殆ど出入りしていない様子だ。
時折地下倉庫に顔を出している他は、校舎の何処にもその姿を見ることはない。
一方カトルは、空き時間を見つけては部屋で端末に向かい、これから起こり得る可能性をシミュレートしていた。
世界中を脅かしているロームフェラの軍事力は、全て宇宙で作られたモビルドールによるものだ。 遠き故郷は、戦いの温床となってしまった。
もしサンクキングダムが崩壊したならば、完全平和主義は潰え、ロームフェラ財団の力による支配が地球上を覆う事になるだろう。
そしてコロニーは、過去の歴史で植民地と呼ばれた国々と同じ道を歩むことになる。
だが、あの時ヒイロが話していたように、戦闘を拒否する態度が今の財団の動きになっているのならば、まだ希望はあるはずだ。
その希望を守るためには、避けては通れない道がある。
血塗られた戦いの道。おそらく何人も死ぬことになるだろう。
だが、それを怖れて何も始めなかったならば……答えは明らかだ。
時代が僕らを必要としはじめている。
『……だから、カトル。時代を受け入れよう』
長い前髪の奥から覗く、緑の眼差しが脳裏に甦る。
自分の過ちを映し出す鏡としての存在ではなく、決して咎めることも責めることもしなかったあの日のトロワそのままの姿。
爆発のその瞬間まで語りかけた彼の言葉の意味が、今ようやくカトルの心に届いた。
「それでいいんだろう？ トロワ。戻るのは無理だけれど、前に進むことなら出来る。
いつかまた会えたら…その時は、真っすぐに君の方を向いて、感謝の言葉を言える自分でありたいんだ」
暫し止まっていた白い指が、再びかたかたとキーボードの上を走り回り始める。
リズミカルなその音は、全ての迷いを断ち切ったかのような響きをもっていた。
リリーナがロームフェラからの招待状を受け取ったのはそれから間もなくの事だった。
それが奸計であると知りつつ、彼女は毅然とした態度で立ち向かっていく。
そんなリリーナの姿に不安を覚えながらも遠くから見送ることしかできないでいるカトルの傍に、いつのまにかヒイロが立っていた。
カトルはじわじわと包み込んでくるような胸苦しさを感じた。
かつて幾度も経験したものだ。ヒイロの心の揺らぎが伝わってくる。
あの日彼は、同調は起こらなくなったと語ったはずだ。ならばこれは一体…。
（ゼロのせいじゃなかったのか？）
そういえば、とカトルは記憶をたどる。
ニューエドワーズ基地で彼と初めて出会った時、一目見ただけで彼を信じた。信じることができた。
彼も疑う事なく自分の誘導に従って。いくら迷っている暇などなかったとはいえ。
既に、あの時からそれは始まっていたのではないのだろうか？ だとしたらあのシベリアの…。
「ヒイロ！」
リリーナの縋るような呼び声が、カトルの思考を現実へと引き戻した。
「約束して頂戴。私に黙っていなくなったりしないと」
ヒイロは静かに首肯く。だが、それが偽りであることをカトルはすぐに理解した。
これから何かをなそうとしている。その激しい想いの輪郭だけが伝わってきて、内側を知る術を持たないのが歯痒い。
ヒイロの瞳は車に乗り込もうとするリリーナに向けられている。やはり、彼女の身を案じているのだろうか。
「いいのかい？ 彼女を行かせて。ロームフェラにとってこの国の考えは、危険なものだ。彼女の身に何かあったら」
だがヒイロはカトルの問いには答えず、無言のまま学園の建物に向かって歩きだした。
「ヒイロ！？」
カトルも慌ててあとを追う。
まるで空気のように無視されているのは辛かったが、確かめずにはいられない。
ヒイロは真っすぐにモビルスーツ格納庫へ向かった。
入るなり手近な端末のスイッチをいれ、情報を引き出していく。
それが自分に見せるためのものだということを、カトルはすぐに悟った。
「ヒイロ、何をするつもりなんだい？」
「もうすぐ大量のモビルドールが、ルクセンブルク基地に降下する」
「ええっ？」
モニターにはおびただしい数の輸送艇が映し出されている。
「ルクセンブルクにはトレーズ派の本拠がある。ロームフェラはここで一気に奴らを叩き潰す気だろう」
「こんな数が一度に地球にくるなんて…。いくらルクセンブルクでももたない」
「決着がつけばそこからモビルドールが世界中に広がる」
昇降ワイヤーの稼働する音に、カトルははっとしてヒイロの姿を捜した。
ウイングガンダムのコックピットが開き、今まさにヒイロが乗り込もうとしている。
「無茶だ！ いくら君でも一人でこれだけの数をおとせる訳がない。どうしても行くというのなら僕も一緒に行く」
今、戦うべき場所はそこしかない。ヒイロの選択は間違ってはいない。
「駄目だ、お前はここにいろ」
「でも…」
「お前はまだ死ぬわけにはいかないだろう。トロワを見付けるまでは」
「ヒイロ！ それって…」
トロワは生きているかもしれない。少なくとも、ヒイロはそれを信じている。
「でも君は？ 君もトロワに会わなくちゃ。だってトロワは君にとって……」
声の限りに叫ぶが、すでにコクピットに納まっているヒイロに届く筈もない。
ロームフェラの支配の阻止に、ヒイロは自分の死すら厭わない程の戦う意義を見いだしたのだろうか。
カトルはそっと目を閉じた。ヒイロの意識がさざ波のように押し寄せカトルの心を揺らし始める。
哀しみ、怒り、そして迷い…。それぞれの感情の輪郭が溶けて混じり合っていく。
そしてその向こうに、おぼろげながらヒイロの姿が浮かんできた。
物心ついた時からずっと戦士であり続けた彼にとって、任務遂行がすなわち生きる目的だったのだろう。
自分の存在意義を見いだせない彼には、死の淵ぎりぎりの苛酷な戦いを続けるしか選択肢が無かったのかもしれない。
（やっと…やっと見つけたというのに…）
再び道は分かたれた。互いの目指す先はこんなにも違っている…。
なすすべもなく立ち竦むカトルの耳に、慌てふためいたようなノインの足音と声が飛び込んできた。
「カトル、どういうことだ？ ヒイロは？」
「ルクセンブルクです」
「もう情報を入手していたのか…」
ヒイロと０１とを失えば、この国の防衛力は半減してしまう。だが、そこまで彼を束縛する権利などない。
困惑の表情を圧し殺しながら、ノインはそっと嘆息する。
「今の彼にとって大切なのは…ルクセンブルクかサンクキングダムかということではないんです」
カトルは震える声で言葉を紡いだ。
自分の生死すら顧みず、ただ闇雲にヒイロは突き進んでいく。まるで何かに駆り立てられているかのように。
だがヒイロは、最も優しく最も残酷な言葉で以て、カトルに生きることを要求してきた。
その矛盾に気が付いたとき、きっとヒイロは自分の進むべき道を見つけられるはずだ。
「つまり…」
カトルは顔を上げ、真っすぐにノインを見返す。
「ヒイロは選んだんです。いちばん死の確立の高い戦場を」
そして彼は必ず戻ってくるだろう。その時こそきっと…。
カトルは祈るような面持ちで、空を見上げていた。
エピオンを伴ってルクセンブルクから戻ったヒイロはもう学園の部屋に帰ろうとはせず、カトルと行動を共にすることもなかった。
モビルスーツ格納庫の片隅で眠り、エピオンの最新鋭システムを利用しての情報収集に余念がない。
秋も徐々に深まり、夜は冷込みが一段と厳しくなっていく。
さすがにノインが差し出した毛布と食料は受け取ったが、ヒイロはそれ以外の全てを拒み続けていた。
カトルがサンドロックを取りに行ったと聞いたときも、無表情のままただ首肯いただけだ。
時折、何かを確かめようとするかのように空を見上げ、または振り返る。
僅かに蠢く唇からは、何の言葉も発せられない。
すれ違ったままの二人が再会するのは、ホワイトファングという新たな勢力が、宇宙に戦いを持ち込んでからのこととなる。
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