いくつかの複雑なパスワードを打ち込み、時には強引に割り込みをかけ。
ゼロに搭載された端末からヒイロは適性チェックリストの項目を呼び出すと、カトルに指し示す。
「多量の情報を瞬時に処理できる能力。訓練によって得られる場合もあるが、主に………。ヒイロ、これって！」
「俺がお前を受信するのはゼロのせいだ。システムに影響され、たまたまその部分が活性化してしまった結果にすぎない。
だがお前の場合、その力を最初から持っていたと考えるほうが自然だ。
周りにいる他人の感情全てに同調してしまえばお前の精神は壊れてしまう。
だから本能的に情報の取捨選択を覚え、その能力は常人を遥に超えたものとなる」
あくまでも仮定の話だが…と続けたヒイロの言葉も既にカトルの耳には届かない。
同調―――いわゆるエンパス能力を指しているのだろうか。
暗黙の了解だったそれが初めて言葉として表され、狭い空間が一気に凍り付く。
息のつまるような焦燥感に駆られて、カトルは逃げるようにコックピットを出た。
あとを追うように降りてきたヒイロを、潤んだ碧い瞳が捉える。
「君の言うことは確かに筋が通ってる。でも僕にはわからない。力のせいだといわれてもこんな曖昧なもの。
それにＨ教授が…あの機体を設計した人なんだけど、僕にそんな素養があると見抜いていたとは思えない」
「そのあたりの事情は本人に聞くしかないだろう」
ヒイロは淡々と言葉を返す。
「それにもし本当に僕にそんな力があるのだとしても、それは僕のした事と何の関係もない。
ゼロシステムは乗る人の心を映し出す鏡と同じだ。パイロットが敵と判断したものを排除する、感情があってこそのシステムなのだから。
僕は感情に任せて戦いに奔ってしまう、弱くて愚かな人間だった。だからあんなふうに…」
渦巻く負の感情のうねりがヒイロをも巻き込もうとガードをこえて次第に伝わってくる。
「でも僕は戦うことしかできない。ならば必要とされる場所で戦うだけだ。今度こそ、時代が僕らを必要としていると信じたい。
だから大丈夫だよ、自分で選んで歩いていける」
うつむき、弱々しげに肩を落とし…。だが、声が震える中に凛とした響きが感じられる。
同じような感覚をヒイロはかつて月基地で味わっていた。
不快感とも違和感とも呼べない、ざらりとした何か。
小さく怯えていた存在が一瞬にして強い力を生み出したようにも見える。
己れの感情に素直でありながら、前を向いて進んでいけるその強さ。
感情自体を圧し殺したり突放したりするほうが、ずっと楽だったろうに。
だがそうやって全てを受け入れていくのは、傍から見るとひどく脆いものにも思える。
「あの時トロワが僕に伝えたかったこと、ようやくわかった気がするから」
どこか夢見るような声と共にカトルの身体がゆっくりと傾いだ。
また倒れるのだろうか。そう感じた瞬間、ヒイロは手を差し伸べカトルを抱き留めていた。
以前にもまして細くなった体は驚くほどに軽い。
触れることで一層強く伝わるそれは、しかし少しずつ違った色を持ちはじめ…。
温和しくなったカトルはふわりと体重をヒイロに預け、そのまま意識を手放していた。
呼吸は正常、脈もわずかに早いだけ。顔色がかなり悪いようだが光線の加減だろうか。
結局こうなってしまうのかと苦笑しながらヒイロはカトルを抱え上げた。
おそらく軽い脳貧血…。医務室に連れていくまでもないだろうと、そのまま自室に連れ帰る。
備え付けの毛布を二枚ともかけてやり白い額に指先を乗せれば、仄かなぬくもりが伝わってきた。どうやら少し熱があるようだ。
解熱剤くらいは必要かもしれない。
傍らに置かれた船内見取り図に手を延ばしたその時、賑やかな声と共にドアが開く音がした。
「いやあ、珍しいもん見せてもらったな。あのヒイロさんが他人の世話を焼くなんて」
皮肉めいた笑みと一緒に茶色の三つ編みが大きく揺れる。
「なぜお前がここにいる？」
「ここはカトルの部屋で、俺はカトルを捜しに来た、それだけのことだ。ついでに言わせてもらうならお前の部屋は向かい。
あれ？ そうか、右側になるんだな、すまんすまん」
頭を掻きながらベッドに近寄ったデュオは、不機嫌さを顕にしたヒイロを一瞥し声を潜めた。
「さっき五飛を案内がてら夕飯を食いに食堂によったら、カトルがあまり食事を取ってないって聞いたから様子を見に来たんだが…
案の定これかよ」
大げさに息を吐き、ベッドに視線を走らせる。
「ずっと張り詰めていたんだろう」
「へえ〜？ お優しいことで」
デュオはにやにや笑ってヒイロの顔を覗き込んだ。
「やけにカトルのこと、わかってるふうじゃないか。っていうか、日頃ポーカーフェイスのお前さんが、ここにきてからあいつらのことが気になって仕方ないって顔をしてるもんな」
「何が言いたい」
「お前、知ってるんだろ？」
ヒイロの目付きが一際と険しいものになる。
「おっと…俺は別にあれこれ詮索するつもりはない。長い戦いだからな、お互い知られたくないことの一つや二つ、あって当たり前だ。
けどさ、おまえもさっきカトルがトロワといるときの目付き見ただろ。気にするなってのも無理な話だぜ。
トロワはまた頭痛だとかで医務室にいったし。まったく、何が何だか…まあ、あいつの記憶が戻れば少しは好転するんだろうが」
「なぜお前はそんなに他人にかまう。これは二人の問題だ」
「あのさあ、ヒイロ…」
デュオは呆れたように肩を落とす。
「トロワもカトルも大事な仲間なんだぜ」
「仲間…？」
「ええい、もうそれ以上言うな。つまり俺はあいつらが好きだから放っておけない、それだけなんだよ。わかったか」
「デュオ」
「なんだよっ！」
「うるさい」
一瞬目を見張ったデュオは、もう一度がっくりと肩を落とした。
「へいへい、カトルを起こすような真似はもういたしません。邪魔したな、ヒイロ」
言ってることとしてることがこれほど違う奴も珍しいよなとぼやきながら、三つ編みはドアの向こうへと消えていく。
放っておけない。デュオの言葉どおり、それだけは確かなのだが。
カトルが眠っていることを今一度確かめ、ヒイロはデュオを追うように部屋を出た。
医務室にいけばトロワと出会うかもしれないということは、予想の範疇だった。
だが実際にドアから出てきたトロワと向かい合ったとき、ヒイロの心は再び揺らぎ始める。
無口なのは変わらないが、会釈してからすれ違うなど、以前には決してありえなかったことだ。
「おい…」
後ろ姿に思わず声をかけてからヒイロは後悔した。一体自分はどうするつもりなのだろう。
呼び止めておきながら無言のヒイロを怪訝に思ったのか、トロワが先に口を開く。
「ヒイロ…とかいったな。お前も俺を知っているのか」
「……ああ、お前には借りがある」
戸惑う心を押さえつつ、ヒイロは慎重に言葉をついだ。
「記憶が戻るまでヘビーアームズには乗らないほうがいい。今のお前にあれは危険すぎる」
トロワは一瞬目を見開き、静かに首肯いた。
「さっき黒髪の奴にも同じことを言われた。心しておこう」
「そうか」
「すまない、心配をかけて」
再び頭を下げてからゆっくりと歩きだす。心許ないその後ろ姿からどうしても目が離せない。
人格というものは記憶の積み重ねから形成されるものだ。その記憶自体を失っている今、別人のようであっても不思議はない。
理屈ではそうだ、ただそれだけのことなのに。
「感情のままに行動する……か」
眉を顰めたまま、ヒイロは消毒薬の匂いのする空間に足を踏みいれた。
「酸欠の影響なんかじゃないわ、ノイン。どんなに大人びていてもまだ十五、ほんの子どもなの」
奥の部屋からサリィ・ポウの声がする。ヒイロは即座に気配を殺し、耳をそばだてた。
「だからといって自分の意志で来た以上、ここを離れろと言う訳にはいかないだろう」
「そうね。でも痛々しい。見てて辛いわ。ふと本当にこれでいいのかと不安になってしまう」
「前に進もうと必死にあがいている…か。だがそれは、彼に限ったことじゃない」
「ええ。でも、記憶喪失というものは単に辛い記憶だから自己防衛の為に忘れる、というような単純なものじゃないのよ。
あれは一種の人格障害で、つまり…」
トロワのプライバシーに関わることだ、聞くべきではない。
そう判断したヒイロは、わざと乱暴に薬品棚の扉を開き薬を取り出す。
「誰？」
サリィが顔を出し、ノインがあとに続いた。
「それ、あなたが飲むわけじゃなさそうね」
手のなかの解熱剤に気付いたサリィは、宇宙でも変わらぬヒイロの服装を見て苦笑いを洩らす。
「あれば安定剤も」
ノインははっとしてヒイロを見つめた。
「カトル…なのか？」
「同情は不要だ。俺達には共通の敵がいる。倒すためには最良の策をとらなければならない」
「だから？」
笑みを浮かべ、サリィは棚から白いラベルの薬を取り出してヒイロに手渡す。
「解熱剤は規定の半量で十分よ。体重、軽そうだから一錠ね。それからこの安定剤は一回に二錠まで、症状によって加減してあげてちょうだい。
続けて飲むときは最低六時間はあけて。かなり眠くなるから服用中の戦闘はなるべく避けたほうがいいわ。それから…」
みなまで聞こうとせず部屋を出ていこうとするヒイロに向かい、ノインは手元のコンテナから飲料水のボトルを取り出し放り投げる。
緩やかな弧を描いたそれは、背を向けたままのヒイロの手元にすっぽりと納まった。
「看病、よろしく頼むわよ。ヒイロ」
どこか奇妙な明るさで、サリィ・ポウは片目を瞑ってみせた。
落ち着かない気分で廊下に出たヒイロは、医務室を振り返った。
たしかにらしくないという自覚はある。だが露骨に揶揄されるほどのことだろうか。
部屋へ戻ればカトルはまだ眠っていた。時折呼吸が乱れ、細い眉が寄せられる。
倒れる前に同調した感情を思い起し、ヒイロは深いため息を吐く。
震える唇に薬と水を口移しで流し込むと、ヒイロもまた眉を寄せた。
飲み下す音がしたが瞼は閉じたままだ。カトルが起きることを期待していた自分に気付き、小さく舌打ちをする。
（馬鹿なことを…）
期待―――何かを望む、欲することなど、遠い過去に切り捨てたはずだった。
それでも時折、見えなかったはずの部分がこうやって自己主張を始める。
そのきっかけはいつもカトルだ。そしていつのまにかその事実を自然なこととして受け入れてしまった。
地球に降下したときとはまるで違う自分がここにいる。
単なる言語の羅列、もしくは情報源にすぎなかった他人の言葉が、色をかえ意味を持ってヒイロの心をノックしてくる。
戸惑いこそすれ、それは決して不快な感情ではなかったはずだ。
『了解しました。あなたに賭けさせてもらいます』
そう、間違いなくそれが全ての始まりなのだと…。
「感情のままにというが、感情自体がこんなに曖昧なものだとは教わらなかった…」
今はもういないかつての保護者に向かい、ヒイロはそっとひとりごちる。
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