シャトルの発進手続き、機体と燃料のチェック、着陸許可の申請、航路のオートプログラムのダウンロード…。
　細々とした用事が片付いてしまうまでの間、俺はロビーのソファに腰かけ例の曲について考えていた。

　砂漠の町を出てからシンガポールにあるウィナー家の別荘まではかなりの長旅だった。
　深い山奥にガンダムを隠し、それから俺たちは徒歩で町に向かう。
　ようやく人里に辿り着き、車をどうやって手配しようかと考え込んでいたそのとき、緑に囲まれた小さなレストランを見つけた。

　濃いブルーグレイの屋根を乗せた白い建物は、いまどき珍しく木で出来ている。
　旅行者相手ではなく、地元の人たちが気軽に立ち寄ることの出来るような家庭的な店構え。
　こざっぱりとした室内のテーブルには目の粗い生成りのクロスがかかっており、可憐な野の花がそれぞれに飾られていた。
　この地方独特の馴染みのない料理ばかりがメニューに並んでいたが、空腹に耐えかねて飛び込んだ俺たちに不満のあるはずもない。
　久しぶりの食事らしい食事に、二人で五人前ものランチをたいらげてしまった。

　お茶の時間に近いほど遅かったせいか、店の客は俺たちだけだ。
　カトルはおずおずと、料理を運んでくれた巨漢の親父に、ピアノを弾かせてくれと頼み込んだ。
　二つ返事でＯＫをもらったときのあいつの顔つきは、今まで見たこともないくらい輝いていて。

　技術的にどうこうなんてことは俺にはちっともわからない。
　だけどカトルの白い指は、モビルスーツの操縦桿を握るよりも鍵盤の上を踊っているほうがよっぽど似合いだと思ったのを覚えている。

　二曲ほど弾いて、俺と店の親父の拍手を受けながらカトルは席へ戻ってきた。

「長いこと弾いてないから…指がうまく動かない」

　はにかみながら小声で言うと、カトルは再びうっとりとした表情になってピアノを見やった。

「音楽は技術じゃないさね、ハートだよ！」

　そういった親父もまた、ピアノを慈しむように撫でながら笑みを浮かべている。

「坊やのような弾き手に出会えて、こいつも喜んでいるようだ。良かったらまた来ておくれ。今度はもっとギャラリーを用意しておくから」
「は…い…」

　あいまいに笑いながらそう答えたけれど、次はもうないだろうということは、あいつだってわかっているはずだ。
　一ヶ所に留まるようなことをすれば、万が一のとき迷惑がかかってしまう。

　カトルの顔が、心なしか曇る。
　もう一度さっきの表情が見たくて、俺は唯一知っているピアノ曲をリクエストすることにした。

「あのさ、幻想即興曲っていうの、弾いてくれないかな？」

　カトルは苦笑いを浮かべて首を振る。

「ショパンの…かな？　あれは無理だよ。僕みたいに趣味でちょっと、なんて程度じゃとても弾けない。毎日何時間も練習を積んでいる人じゃないとね」

「何か思い出でもありなさるのかい？」

　いきなり親父に聞かれて、俺は言葉に詰まった。

「は〜ん？　初恋の人が弾いていた、とか？」

　ニヤニヤ笑いながら、火傷の痕が残る太い指でピアノの蓋を開く。
　大きな体が小さな椅子に納まると、親父は大きく深呼吸をした。力強い和音が一つ、そして華麗なメロディーが紡ぎだされる。

「す…げえ…」

　唖然として俺たちは、親父の姿に見惚れてしまった。

　聴きなれたメロディー。
　だけど弾き手が違うせいだろう、俺の知っているそれよりも少し情熱的な感じがする。

　もっと優しく流れるようなイメージ…。それはそのままシスターヘレンとの思い出に重なっていく。
　少女時代はショパン弾きになりたかったの、と語っていた彼女もまた、ピアノが上手で…。
　珍しく俺はしんみりした気分になって、そのまま黙り込んでしまった。

　そういえばあの時カトルはどうしていたっけ。
　二人で過ごした記憶をたどると、唯一そこだけが空白だ。

『4507番の方、手続き終了です』

　呼び出しの音声で俺は我に返った。
　あいつが俺のためにあの曲を弾く練習をしてくれているのなら喜ばしいことだ。
　でも寝る間を惜しんで…というのはどう見ても普通じゃない。

　とにかく一刻も早くカトルに会わないと！

　だけどこのあたりはコロニーが多く、結構渋滞している空域だ。
　大急ぎでコックピットに腰を下ろすと、プログラムされたコースをモニターで調べる作業に取り掛かった。
　案の定、あちこち迂回して時間がかかるコースが指示されている。

　舌打ちを一つ。
　少し苛ついた気分で俺はシャトルを発進させた。





　オートパイロットが勝手に飛ばせてくれる段階になれば、作業も一息つける。
　俺はもう一つの手がかり、「二週間前」について考え始めた。

　俺サイドには何も問題はないだろう。
　あのころは配達の仕事がやたら多くて忙しい、でもその分収入は多そうだ、なんてことをメールしただけだから。
　じゃあカトルの身の回りで何かあったんだろうか。
　新聞を捜したほうが手っ取り早いだろうと、俺はコロニー総合新聞局にアクセスしてみる。

　カトル・ラバーバ・ウィナーで検索すると出るわ出るわ、なんと三日間で193件もの記事が出てきた。
（大衆紙から専門誌まで、新聞自体が50くらいあるから無理もないけれど）

　一番派手に載っていたのは、Ｌ１コロニーで行われた地球圏統一国家会議だ。
　Ｌ４コロニから出された協定案は地球のお偉いさん方にもかなり好評なようで、カトルも結構やるじゃないかと俺は自分のことのように喜んだ。
　そのほかに目立ったのが、リリーナお嬢さんとのツーショット。
　無責任な噂が多々飛び交っているようだけれど、おそらくこれは関係ないだろう。

　しばらく見ているうちに、内容よりもむしろカトルの写真のほうが気になった俺は、しばらくの間、これは写りが悪い、これはよく撮れているなどとぶつぶつ独り言を言いながら遊んでいた。

　そうするうちに、モニターの隣の赤ランプが点滅し始める。続いて短い発信音が鳴り響いた。
　誘導信号キャッチ、手動切り替えのサインだ。

「やれやれ、やっとかよ」

　もうのんびりしている暇はない。
　小型シャトルの着陸っていうのは、かなり神経を遣うものだ。
　ともあれじきにカトルに会える。
　今はこいつに集中しないとな……。



next