空気が澱んでいる…。それがこの街に足を踏み入れたときのカトルの第一印象だった。コロニーというものは、大きな空調設備のある密室と大差ない筈なのに。しかもこの澱み方は、地球のものとはまるで違う人工的なものだった。
煙草の煙、ドラッグやハーブの香り、そして何かを燃やしているような熱気と汚物の臭気。確かにここは、不健全な匂いが満ちている。
街の人々は、無関心を装いながら不自然な二人連れを盗み見ていた。
「ファーター、ここが例の？」
傍らの男にカトルは尋ねる。
「そうです。先日の会議でも問題になりましたＥ区画の通称『天国通り（ヘヴンストリート）』、いかがわしい場所です」
ファーターと呼ばれた男は、長身で痩せた神経質そうな容貌をしている。カトルの代になってから雇われた、優秀な部下の一人だ。カトルはこの男の有能さを高く評価していたが、好意を持つことはできなかった。
「一度、御目にかけておかなければならないと思いまして」
フランク･ファーターは、この町の不潔さにカトルが耐えられるわけがないと思っていた。１７歳の若き当主の純粋さは、お坊ちゃん育ちの世間知らずのせいだと思いこんでいたからだ。時折彼が見せる意思の強さも、単に甘さから来る強引さだとたかをくくっている。
（人間のもっとも汚れた部分に目を向けていただきましょうか。さて、どのような感想を持たれるやら……）
「着替えなければならなかったわけがわかりました。確かにスーツ姿では場違いでしたね」
白いポロシャツにジーンズ、スニーカー姿といういでたちで部下を見上げるカトルの表情には、やはり緊張が滲んでいる。
「あまり左奥には立ち入らないほうが良いかと思われます。特に治安が悪いといわれておりますし、その、いわゆるゲイが多いそうです」
「左奥ですね、気をつけましょう」
だが装いはどうであれ、二人はやはり場違いだった。売春婦やドラッグの売人がひしめき、怪しげな見世物小屋の立ち並ぶこの町を訪れる人々は、皆下劣な欲望を剥き出しにしているからだ。
そのうえカトルは、見事な金髪といかにも育ちがよさそうな立ち居振る舞いがひときわ人目を引いていた。
ガンダムパイロットとして戦ってきた間、彼は様々な人間の弱さや悲しさと向き合ってきた。だが、こういった場所には一度も出くわしたことがない。
（僕を試そうと思っている……）
勘の良いカトルは、部下の思惑を感じ取っていた。
（だが僕自身、正面から向き合ったことのない感情を理解できるのだろうか）
不安はあったが、麻薬の密売や犯罪が絶えず、時には流行り病で多くの死者を出すこの区画をこのまま放置しておくわけにはいかなかった。コロニーのような閉ざされた空間では、流行り病は瞬く間に広がる可能性があるからだ。
「密輸ルートの存在も確認されています。病もおそらくそこから入るものと思われます」
ファーターがカトルに声をかけた。
「その報告書は昨日読みました。確認されているとはいえ、まだ特定できていないのでしたね」
「まるで街全体が口裏を合わせているようで実態がつかめません。そういった意味では、やつらの結束力はたいしたものです」
いまいましそうに話す態度には、明らかに住民を侮蔑している様子がある。
「結束力……ですか。彼らなりの秩序はあるというわけですね」
カトルは街の人々の暮らしぶりに興味がわいた。
「この町を案内してくれる人はいないでしょうか。彼らの生活を知りたいのです」
「とんでもない」
当主の提案を、ファーターは即座に否定する。
「これ以上何をご覧になるおつもりですか？」
一目見ただけで街の様子がわかるはず･…。そう言いたげだ。いつのまにか痩せこけた犬がやってきて、道端に投げ捨てられた生ゴミを食い散らかし始めた。
「犬ですな。あれもおそらく密輸され、あのように放置されているのでしょう」
「ええ…」
少年は言葉を続けられなかった。
街の人々に強制退去を命じるのは一番手っ取り早い方法である。しかし、カトルは彼らがここに住みつづけたいと思っているのかどうかをまず知りたいと思っていた。
一方、ファーターはそのようなことにはまるで興味を示さない。彼にとって、ここは単に俗悪な場所に過ぎず当然切り捨てるべきものなのである。いつでも自分の価値判断だけが正しいのだ。それゆえ彼の判断は常に素早い。そしてそんな部下に、過去何度か当主は助けられていた。
（本当に難しい問題だな）
そんなカトルの苛立ちを助長するかのように、ファーターはさらに話しつづける。
「ウィナー家の御当主といえどもやはり人の子、こういう場所に興味がおありなのは自然なことですな。恋人もいらっしゃらないようですし」
「急がしすぎて女の子どころじゃないよ」
部下の慇懃無礼な物言いにうんざりしかけていたカトルはつい本音を語ってしまった。
「おや、あれは…」
視線でファーターが示した先に、Ｌ−４コロニーエリアの教育委員長、ジャック・クレイマーの姿があった。勤勉、実直で知られる彼がこの様な町に出入りするとは…。
人の欲望の不思議さに、カトルはただ唖然とするばかりだ。
「戻りましょう、カトル様。この様な場所に長居は無用です」
だが、ファーターが声をかけた先に当主の姿は無かった。驚いて辺りを見まわすと、すでにカトルは５人もの男達に取り囲まれている。
「この街の案内なら俺達が引き受けるぜ」
マグアナック隊のラシードくらいはあろうかという大男がカトルの両肩に手をかけた。
「ここがどんな場所か知らないで入り込んだわけじゃないだろう？」
わらいながらナイフを光らせている少年は、カトルより幼いながらも既にジャンキーの瞳をしている。
「さて、どうやってやり過ごすのか、見せていただきましょうか」
懐の護身用の銃に手をやったまま、ファーターはしばらくこの場を眺めることにした。
カトルは少年のほうを向くと、「僕はそんな用事でここに来たんじゃない」と静かに言い放つ。
そのきっぱりとした口調と真っ直ぐな視線に、少年はたじろぎ後退りした。しかし大男には通用しない。どうやらこの男がグループのリーダーらしい。
（そろそろ潮時か）
銃を取り出そうとした瞬間、いつのまにか近づいていた男の拳がファーターのみぞおちに食い込んだ。
どさりと地面に倒れる音を耳にしたカトルは、自分が孤立無援になったことを悟る。
「さて、これで邪魔は入らない。ボディーガードつきでここに来るとは、一体何の用かな？」
大男の太い指が無遠慮に髪や頬に触れてくる。まるで獲物の価値を確かめようとするかのような態度に、カトルは吐き気をもよおすほどの嫌悪を感じた。
（土地感のないこの場所でやみくもに逃げるのは不利だ。かえって彼らを煽る結果になりかねない。とにかく、機会を待たなくては）
身を守るものを何も持ち合わせていない今は、持ち前の勘と判断力だけが頼りだ。努めて彼は冷静になろうとしていた。
「おや、これは！」
少年が頓狂な声をあげる。
｢すげえ、このシャツ！ このボタン、見ろよ。これ一枚で、俺ら１ヶ月は食って行けるくらいの最高級品だぜ。こいつ、何物なんだ？」
育ちの違いに嫉妬してか、いきなりナイフでカトルのシャツを引き裂く。
鋭い刃が肌を浅く傷つけた。少女のように白く滑らかな肌に滲む血の美しさに、男達は思わず息を呑む。
「そのくらいにしとけ。手荒な扱いをするとあとで面倒な事になるかもしれん」
大男は少年を制すとカトルのほうに向き直った。
｢だがスキャンダルもまずいだろ、坊ちゃん。内緒で俺達が少し遊んでやるよ。この街のことは体で知るのが一番だからしっかり覚えて帰りな」
方に置かれていた手に力がこもる。
「なあに、少しの間大人しくしていれば済む。壊しはしない」
この男達にとって、既に自分は単なるセックスの対象に過ぎないのだ。
初めて経験するプレッシャーにカトルは恐怖を覚えた。『強姦』という２文字が脳裏に浮かぶ。
あの戦争のあいだ、何度かそういった不幸な女性の話を耳にしたことがあった。それが今、男である自分の身に降りかかろうとしている。このまま犯られるわけにはいかない。しかし、隙をつこうにも相手の人数が多すぎる。
（落ち着くんだ、チャンスはきっと来る）
だが体は既にこわばっていた。押されるままに足が動いてしまう。
やがて木造りを模した小屋に着いた。片手でカトルの方をつかんだまま、大男は呼び鈴を押す。 出てきたのは年の頃１３、４のまるで人形のような美少女だった。
「ミディア、ちょいと部屋を貸してくれよ、ほんの一時間ほどでいいからさ」
ミディアと呼ばれた少女はチラッとカトルのほうを見ると驚いた表情を見せた。それから男に向かい、
｢この子はあたしのお客だからね。手を出さないでくれる？｣と、ぴしゃりと睨めつける。
｢やっと来てくれたのね、カトル。馬鹿ねえ、また迷ったんでしょ。絡まれると困るからってこのあいだ近道を教えたばかりじゃないの」
甘えた声を出して少女はカトルに抱きついてくる。男は渋々手を離した。そして満面に笑みを浮かべた少女は、あっけにとられている少年を小屋へと導く。
｢そんなわけだから、この子には手を出さないでね｣
そう言って扉を閉めてしまった。
◆◆◆
何がどうなっているのか理解できないまま、放心状態でカトルは少女の前に立っていた。
いきなり名前を呼ばれたのにも驚いたが、なにより彼女の表情があまりにも無邪気だったからだ。
｢ほら、つっ立ってないで。シャワーとベッドルームはこっちよ」
まるでお茶にでも誘うような態度に面喰ってしまったカトルは、手を引かれるままついていってしまう。
｢緊張しているみたいね。初めてなの？｣
背を向け、長い黒髪を束ねていたリボンを解きながら少女は尋ねてくる。答えるかわりにカトルは、｢僕は君に会ったことがあるのかな？｣と聞き返した。
「やだあ！ 本当にカトルなの？｣
笑いながら振り返ると少女は急に真顔になり、少年をしげしげと見つめる。
「やけに似てると思ったけど、ひょっとして本物のカトル･ラバーバ･ウィナー氏？」と、丸い目をいっそう丸くした。
｢え…と、その…まいったな」
この少女の行動は予想の範囲を越えている。自分の身元が明らかになったことがどのような結果を引き起こすのか、カトルには見当もつかなかった。
｢わざわざこんなところまで視察に来たの？ よっぽどここが問題になっているのね｣
少女の表情が少しだけ曇ったが、次の瞬間には元の笑顔に戻ると、
「ね、しよう。ここのところ、お客は薄汚いオジサマばっかりでうんざりしてたの。嬉しいわ、実物のキミって写真よりもずっと綺麗なのね」と誘ってくる。
まるで年下のように扱われることに苦笑いしながら、カトルは少女と向き合った。
｢僕にはそんなつもりはない。助けてくれたお礼ならそれなりに払う。でも、それだけだ」
｢あたしはキミとしたいんだけどな。あたしじゃ不満？」
そう言うと少女はぴったりと体を寄せてきた。胸元から強い香りが漂ってくる。レモンとミントを混ぜたような、それでいてどこか甘い……。
｢な…何の香り？ すごくきつい」
｢夢の世界にようこそ。ね、あたしとしましょ？」
体の奥から理解できない感情が湧き起こる。指先が火照り、軽い眩暈がした。
｢ドラッグ…なのか？」
「そう、ごめんなさいね。本当はこんなもの使いたくなかったんだけれど。即効性の媚薬なの」
少年の反応に満足そうに微笑んで、少女は体を離すとどおもむろにドレスを脱ぎ始める。
生まれて初めて間近に見る女性の下着姿にカトルは強い衝動を覚えた。まだ幼く華奢でありながらふっくらと丸い胸、折れそうなほどに細いウエスト、そして黒髪に映える象牙色の肌、すべてがなまめかしく感じられる。
白いペチコートの下に覗く太腿が目に留まった。その奥にあるものを想像してしまうとカトルはついに自分を押さえきれなくなり少女を抱き寄せた。
｢ミディア…って呼んでね」
そう囁いて、少女はカトルの唇に自分のそれを重ね合わせる。ミディアの瞳の奥に、残酷な光を垣間見た気がした。
（僕が甘すぎたのか…）
緊張のせいで判断を誤ったのだと心のどこかで思いながらも、膨れ上がる欲望はカトルの全てを支配してしまうかのように思われた。
｢僕は…僕は……」
必死で抗うものの、触れてしまった肌から手を離すことができない。指先に少女の胸の膨らみを感じた。反射的にカトルはミディアをベッドに押し倒す。
瞬間、傷ついた胸元に鈍い痛みが走った。その刺激が彼に僅かばかりの理性を取り戻させた。
（どこかでこの感じを経験したような気がする）
自分の意思で行動しているようで実は行動させられている。この強い衝動は、自分の意思とは微妙に違っている。
｢ゼロシステムだ！」
思わずカトルは叫んでいた。そしてかろうじてミディアの身体から手を離すとあのときの記憶を手繰り寄せる。
（……脳に直接送りこまれる命令、意思に反して取り込まれていく感覚。今の自分はあの時とまるで同じだ。未来は見えないが、その代わり生殖の本能という欲求がそれを後押ししている）
「だめだ、だめだ、だめなんだ！」
低くうめきながらカトルは込み上げてくる衝動と戦った。嘔吐感が幾度となくカトルを襲う。体が震え、頭の奥がキリキリと痛んだ。
｢まさかバッドトリップなの？ いやだ、キミ、大丈夫？大丈夫なの？」
｢だい…じょう…ぶ…。僕は、僕の意思に…従う…だけ……」
そう答えるとカトルは床に倒れこみ、そのまま意識を失った。
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